GUIDE
成田空港の誕生と反対運動 三里塚闘争が残したもの
成田国際空港の建設に至る歴史と、三里塚・芝山連合空港反対同盟による激しい反対運動を解説する。農地強制収用、機動隊との衝突、管制塔占拠まで。闘争が現代の成田に与えた影響とともに。
最終更新: 出典: 国土交通省 不動産成約価格情報 / BayMap独自集計
成田山新勝寺と門前町の原点
成田市を語るには、空港より先に成田山新勝寺に触れなければならない。成田山は真言宗智山派の大本山で、940年(天慶3年)に寛朝大僧正が不動明王を奉じて創建したとされる。江戸時代には歌舞伎役者・市川團十郎が信仰し、その縁で江戸庶民の間に参詣が広まった。現在も年間1,000万人前後の参拝者を集める大寺院だ。
江戸時代の成田は、成田山を中心とした門前町として発展した。参道沿いに旅籠・茶屋・土産物屋が並び、江戸からの参詣客が宿泊・消費する場として活況を呈した。参詣路は「成田街道」として整備され、現在の京成本線・成田線の前身となる鉄道が開通したのも明治期のことだ。1897年(明治30年)に成田鉄道(後に国鉄成田線として統合)が開通し、1926年には京成電鉄も延伸した。鉄道開通によって参詣の利便性は高まり、成田山への観光客がさらに増加した。
成田市の近代は、成田山門前町という性格と農業地帯としての性格が並存する形で進んだ。市の中心部は参道・商業地として機能し、周辺には水田・畑作の農地が広がった。三里塚地区はその農村部に位置し、戦後開拓農民が入植した地域だった。
この「門前町の成田」と「農村の三里塚」という二層の空間構成が、空港建設問題が持つ複雑さの背景にある。空港予定地の農民が闘争の当事者であった一方、成田市の商業中心部は空港建設に経済的な利益を期待していた。成田市内でも、空港問題に対するスタンスは一様ではなかった。
成田空港はなぜ千葉に作られたのか
成田国際空港(正式名称は2004年まで「新東京国際空港」)は、千葉県成田市三里塚に位置する。東京の都心から約60km、成田市の中心部からも数km離れた位置に建設されたこの空港が、なぜ東京から遠く離れた千葉の農村地帯に作られることになったのか。その経緯は、日本の高度成長期の政策決定の在り方と、民主主義的な合意形成の欠如を鮮明に映し出している。
戦後の高度成長期、日本の航空需要は急速に拡大した。1950年代後半から羽田空港(東京国際空港)の過密化が問題になり、新たな国際空港の建設が政府の課題として浮上した。1960年代初頭、政府は複数の候補地を検討した。霞ヶ浦周辺・富里・三里塚などが候補として挙がる中で、最終的に1966年(昭和41年)、佐藤栄作内閣は閣議決定によって三里塚・芝山地区を新国際空港の建設地に決定した。
成田空港建設の候補地検討では、霞ヶ浦周辺・富里・三里塚・木更津沖(海上空港案)などが挙がっていた。木更津沖の海上空港案は、農地収用を避けられる点で有望視されたが、建設コストの大きさと技術的な課題から棄却された。富里案も一時有力だったが、地元農民の反発を受けて撤回された。三里塚案は、御料牧場という国有地に隣接し、他の候補地より用地取得が容易と判断されたことが選定の決め手の一つだったとされる。
しかし実際には、御料牧場の土地だけでは足りず、周辺農地の収用が必要だった。事前の住民説明がなかったため、地元農民は新聞報道で建設決定を初めて知ったという証言が多数残っている。こうした「決定の告知」の形式が、反発感情の強さに直結した。
この決定に、地元住民・農民との事前協議はなかった。政府は「公共の利益」を理由に、既存の住民・農民の意向を確認せずに建設地を決定した。これが、その後20年以上にわたって続く激しい反対運動の出発点だ。
三里塚の農村と住民の背景
「三里塚」という地名は、成田市の一地区に由来する。この地区はかつて天皇家の御料牧場(宮内庁が管理する農牧地)があった場所で、戦後は開拓農民が入植して農地を切り開いた経緯を持つ。
戦後の食糧不足の時代、政府の奨励のもとで全国の開拓地に農民が入植した。三里塚の農民たちも、荒れ地を数十年かけて耕し、乳牛・野菜・米の農業を軌道に乗せてきた。「国が農地として定住を奨励したのに、今度は空港のために出て行けというのか」という感覚は、反対運動の感情的な核心にあった。
三里塚・芝山の農民たちは1966年に「三里塚・芝山連合空港反対同盟」(以下「反対同盟」)を結成する。代表は戸村一作が務め、農民の生活と土地を守るための実力行使を辞さない姿勢を打ち出した。
新左翼運動との合流
三里塚闘争が単なる農民の土地問題を超えた社会運動に発展した背景には、1960〜70年代の日本の新左翼運動との合流がある。
1960年の安保闘争の敗北後、日本の左翼運動は変容を経験した。全共闘・中核派・革マル派・ブント(共産主義者同盟)など複数の新左翼セクトが、大学闘争・反戦運動を展開する中で、三里塚の農民闘争を「資本主義国家による農民収奪への抵抗」として支持するようになった。
新左翼各派が三里塚に合流したことで、闘争は農村地域の局所的な問題から全国的な政治運動へと拡大した。東京・京都・大阪などの学生・活動家が三里塚に集まり、機動隊との直接対決を含む実力行使に参加した。
この合流は両義的な意味を持った。一方では、農民だけでは持ち得なかった組織力・情報発信力・政治的交渉力を運動にもたらした。他方では、新左翼各派のイデオロギー対立や、農民の本来の利益とは離れた政治的目的が運動に持ち込まれ、複雑な内部矛盾を生んだ。
実力行使の段階的エスカレーション
1967年から1978年にかけて、三里塚闘争は段階的に激化した。主な局面を追う。
1967年(昭和42年):政府が強制測量を開始。農民・支援者が測量阻止のために機動隊と衝突。この段階から物理的な抵抗が始まった。
1971年(昭和46年):農地強制収用の執行が始まる。機動隊数千人が農地に入り、抵抗する農民・支援者との激しい衝突が起きた。この過程で機動隊員・農民・活動家の死者が出た(双方合計で複数名)。農地は強制的に収用されたが、一部の農民は敷地内に残留し続けた。
1978年(昭和53年)3月26日:開港を直前に控えた成田空港管制塔占拠事件が起きた。活動家グループが空港施設に侵入し、管制塔内の機器を破壊した。この事件で開港は延期された。同年5月20日に開港したが、開港式典は中止された。
管制塔占拠は、空港建設に反対する側の「実力行使の頂点」として記憶されているが、同時に反対運動の社会的な支持が狭まるきっかけにもなった。暴力的な実力行使への一般市民の支持は限られており、この事件以降、運動への共感が分散し始めた。
開港後の長期抵抗と「一坪運動」
1978年の開港後も、三里塚闘争は形を変えながら継続した。
注目すべき動きの一つが「一坪運動」だ。空港建設に反対する人々が、空港予定地内の農地の「一坪分の権利」を多数の市民に分散して持ち合うという戦略だ。土地収用には個々の地権者との交渉・手続きが必要であるため、権利を多数に分散することで収用を困難にしようとした。
また、「反対同盟」内部での路線対立が長期化する中で、一部農家は空港会社・政府との交渉(「円卓会議」)を経て和解した。1993〜1994年にかけて行われた「成田空港問題円卓会議」では、政府・空港公団・反対同盟の一部が交渉のテーブルについた。和解した農家は補償を受けて移転したが、最後まで残留した農家は2020年代の現在でも空港敷地内に土地を持ち続けている。
空港敷地内に農地が存在し、農家が農業を続けているという状況は、今日の成田空港の独特な景観の一つだ。滑走路と農地が隣接するこの光景は、三里塚闘争が「完全には終わっていない」ことを示している。
闘争が現代の成田空港に与えた影響
三里塚闘争が成田空港の構造と機能に与えた影響は、現在に至るまで残っている。
第一に、空港の規模制約だ。当初計画されていたよりも小さい滑走路2本での開港となり、長年にわたって拡張が困難だった。特に、第二滑走路(B滑走路)の延長問題は2000年代まで解決しなかった。開港から25年以上を経た2002年に、ようやく暫定的な形でB滑走路の使用が開始された。完全延長が実現したのはさらに後のことだ。
第二に、空港へのアクセスの複雑さだ。反対運動による不確実性の長期化が、アクセスインフラの整備を遅らせた側面がある。成田特急(N'EX)の運行開始は1991年で、開港から13年が経過していた。
第三に、日本の公共事業における住民合意形成プロセスへの影響だ。三里塚闘争は、強制的な土地収用が巨大な社会的コストを生むことを示した事例として、後の公共事業の計画・実施プロセスを変えるきっかけになった。「地域住民との対話なき計画決定が、いかに大きなコストを社会全体に負わせるか」という教訓は、その後の日本の公共事業政策に反映された。
今に続く課題と2030年代の拡張計画
現在の成田空港は、コロナ禍からの回復に伴う国際線需要の増加と、LCC(格安航空会社)路線の急拡大の中で、処理能力の限界が再び課題となっている。
政府・空港会社・千葉県・周辺自治体は2020年代に入り、成田空港の機能強化(第3滑走路の新設・既存滑走路の延長)に向けた計画を進めている。処理容量を年間3,000万人規模から最終的に5,000〜6,000万人規模に引き上げる構想だ。
今回の拡張計画においては、1960年代と異なる対話プロセスが取られている。周辺自治体・住民との協議を重ね、騒音対策・移転補償・地域振興策をセットで提示することで合意形成を図った。2020年に国・空港会社・周辺自治体・住民代表が参加する「四者協議会」が設置され、公開の場での協議が続いている。
三里塚闘争の歴史的教訓を踏まえた対話プロセスが今回は機能しているとも言えるが、空港騒音・環境問題に関する住民の懸念が完全に解消されたわけではない。拡張計画は現在も進行中であり、成田という地域が空港とどう共存していくかという問いは続いている。
三里塚闘争をどう読むか
三里塚闘争は、評価の視点によって大きく異なる意味を持つ複雑な出来事だ。
農民の土地を守る運動として見れば、国家権力による一方的な収用に対する正当な抵抗だ。新左翼の政治運動として見れば、資本主義国家に対するイデオロギー的な対決の一局面だ。公共政策の観点から見れば、事前合意なき計画決定が社会に与えるコストを示す否定的な先例だ。
いずれの読み方も一面の真実を持つ。三里塚闘争は、「公共の利益」と「個人・地域の権利」の衝突がいかに複雑かを示した出来事として、日本の近現代史の中に記録されている。
注目すべきは、闘争が敗れ農地が収用された後も、一部農家が土地を守り続けたという事実だ。空港敷地内に農地が現存し、農業が今も続いているという現実は、法律・補償・合意という手続きだけでは解決しきれない人間と土地の関係を示している。
2024年現在、三里塚の反対同盟は組織としてほぼ解散状態にある。当時の活動家・農民は高齢化し、次世代への継承は限られた。しかし、成田空港周辺の地域コミュニティの中には、闘争の記憶と当時の問題意識が受け継がれている。「地域の合意なき開発は地域を分断する」という教訓は、成田だけの話ではなく、大規模インフラ整備が続く日本各地に共通する問いだ。
現代の成田市の不動産・経済を考える上でも、三里塚闘争の痕跡は見えてくる。次の記事では、空港開港後の成田市の発展と、現在の成田の不動産市場・生活環境を詳しく読み解く。
2026年の強制収用検討という新局面
2026年4月、成田国際空港会社(NAA)の藤井直樹社長が国土交通省の金子恭之大臣と面会し、土地収用法を適用した強制収用手続きの検討を伝えた。NAAは2026年3月末をめどに1,099ヘクタールの用地取得を目指してきたが、確保率は89.7%にとどまった。特にC滑走路(第3滑走路)区域は88.7%と低迷しており、供用開始時期を示せていない状況だ。
藤井社長は「400回以上の説明を行い、任意の取得に向けて最大限取り組んだ」と説明した上で、強制収用制度の活用が必要との判断に至ったと述べた。金子国交相は「土地収用制度の活用が必要な状況に至っていることは理解する」とコメントし、地元の理解を丁寧に得ることと任意取得の継続を求めた。
強制収用は1970年代の三里塚闘争の時代にも実施されたが、国側は後に「強引な方法だった」として事実上放棄した経緯がある。再び強制収用に踏み出せば、大きな方針転換となる。早ければ2026年6月にも手続き開始が正式決定される見通しだ。
三里塚闘争の歴史を踏まえれば、この決定の重みは明らかだ。「対話と合意形成」を原則とした2020年代の計画推進が、任意取得の限界に達した時点で、再び強制という手段に向き合わざるを得ない現実を示している。
